神社のいろは
神道の起源はとても古く、日本の風土や日本人の生活習慣に基づき、自然に生じた神観念です。
このためキリスト教のキリストのような開祖はいませんし、「聖書」のような教典もありませんが、『古事記』や『日本書紀』『風土記』などにより、神道の在り方や神々のことを窺うことができます。
日本人の生活と深い関わりのある神道は当初から宗教や宗派として認識されていたわけではなく、仏教が大陸から伝来したのち、それまでの我が国独自の慣習や信仰が御祖神(みおやがみ)の御心に従う「かむながらの道(神道)」として意識されるようになりました。
神社の創立の由来はとても古く、それぞれの土地や氏族の神話的な淵源に根ざしたものです。日本人の民族性とも共通することですが、神道の特色の一つとして、外来の他宗教に対する寛容さを挙げることができます。神道は仏教や儒教・道教などとも習合し、中世から近世にかけてさまざまな思想的な展開が見られ、我が国の文化に大きな影響を及ぼしました。
しかし、我が国独自の神観念は変らず、現在まで脈々と受け継がれています。
さて、我々が生活する地域の氏神様を含めて、神社は全国至るところにあり、八百万(やおよろず)の神といわれるほど多くの神々が森厳なる神社の境内の中にお鎮(しず)まりになられています。これは我々が生活を豊かに育んできた自然の中に神々の姿を感じ、畏敬の念をもって接してきたことによります。
こうした自然との調和を大切にする神道は、より良い自然環境を次世代に継承させるという観点からも、今後更に重要となるのではないでしょうか。
また、神道の特色の一つとして神々を敬い祖先を大切にする(敬神崇祖・けいしんすうそ)といった考え方があります。これは神々が他の宗教のように隔絶された御存在ではなく、我々の御祖神として深い繋がりがあるごとを説いたものです。自らの御先祖も丁重にお祀(まつ)りすることにより、我々を見守って戴ける神々としてお鎮まりになられるのです。
全国の神社については、皇祖(こうそ)天照大御神(あまてらすおおみかみ)をお祀りする伊勢の神宮を別格の御存在として、このほかを氏神神社と崇敬神社の二つに大きく分けることができます。
氏神神社とは、自らが居住する地域の氏神様をお祀りする神社であり、この神社の鎮座する周辺の一定地域に居住する人々を氏子(うじこ)と称します。
元来は、文字通り氏姓を同じくする氏族の間で、自らの祖神(親神)や、氏族に縁の深い神様を氏神と称して祀ったことに由来し、この血縁的集団を氏子と呼んでいました。
現在のような地縁的な関係を指しては、産土神(うぶすながみ)と産子(うぶこ)という呼称がありますが、地縁的関係についても、次第に氏神・氏子という呼び方が、混同して用いられるようになりました。
これに対して崇敬神社とは、こうした地縁や血縁的な関係以外で、個人の特別な信仰等により崇敬される神社をいい、こうした神社を信仰する方を崇敬者と呼びます。神社によっては、由緒や地勢的な問題などにより氏子を持たない場合もあり、こうした神社では、神社の維持や教化活動のため、崇敬会などといった組織が設けられています。
氏神神社と崇敬神社の違いとは、以上のようなことであり、一人の方が両者を共に信仰(崇敬)しても差し支えないわけです。
おまいりのいろは
私たちが人に対しておじぎをするときは、普通は一度だけですが、神様を拝むときには「二拝二拍手一拝」の作法が用いられます。この作法は、我が国の伝統的な作法である「両段再拝」に基づくものです。「両段再拝」とは、再拝(二度おじぎをする)を二回おこなうことをいいます。
実際の作法では、二拝の後に拍手(はくしゅ・かしわで)または祝詞(のりと)奏上をおこない、再び二拝をおこなう場合もあります。拍手については、古くから我が国独自の拝礼作法として、神様や貴人を敬い拝むときに用いられました。平安時代、大陸との交流による影響で、宮中ではこの作法をおこなわなくなり、ただ二拝のみをするようになったことが文献に見えます。
しかし、神様を拝む際には変わらず拍手が用いられてきました。その後、この両段再拝の作法も各流派や神社によって多少の違いを生じましたが、明治八年に編まれた「神仕祭式」に「再拝拍手」という形が制定され、これを基本に「二拝二拍手一拝」という参拝作法が慣例化しました。神社によっては、今日でも一社の故実により異なった作法をおこなっているところもあり、伊勢の神宮の神職がおこなう八度拝や出雲大社の四拍手などを例として挙げることができます。
玉串は神前にお供えするものとして、米・酒・魚・野菜・果物・塩・水等の神饌と同様の意味があると考えられています。しかし、神饌と異なる点は、玉串拝礼という形で自らの気持ちをこめて供え、お参りをするということです。勿論、神饌も注意して選び、心をこめてお供えをしますが、玉串は祭典の中で捧げて拝礼することから、格別な意味を有するものであることが分かります。
『神社祭式同行事作法解説』(神社本庁編)では玉串を捧げることを「玉串は神に敬意を表し、且つ神威を受けるために祈念をこめて捧げるものである」と説明しています。
玉串の由来は、神簸(ひもろぎ)とも関連して『古事記』の天の岩屋(あまのいわや)隠れの神話に求められるものといわれています。すなわち天照大御神の岩屋隠れの際に、神々がおこなった祀りでは真榊に玉や鏡などをかけて、天照大御神の出御を仰いだことが記されています。
その語源には幾つかの説があり、本居宣長(もとおりのりなが)は、その名称の由来を控剛に手向けるため「手向串(たむけぐし)」とし、供物的な意味を有するものと解しています。
また平田篤胤(ひらたあつたね)は、本来は木竹(串)に玉を着けたものであったために「玉串」と称したと述べています。
このほか、六入部是香(むとべよしか)は真榊が神霊の宿ります料として、「霊串(たまぐし)」の意があるなどとしています。
こうしたことから玉串は神簸と同様に神霊を迎える依代であり、また玉串を捧げて祈る人の気持ちがこめられることにより、祀られる神と祀る人との霊性を合わせる仲立ちとしての役割を果たす供物であるということができるのではないでしょうか。
お宴銭の意味や起源には諸説があります。現在では神社にお参りすると、お奏銭箱に金銭でお供えしますが、このように金銭を供えることが一般的となったのは、そう古いことではありません。
もともと、御神前には海や山の幸が供えられました。その中でも特に米を白紙で巻いて包み「おひねり」としてお供えしました。私たちは祖先の時代から豊かな自然に育まれ暮らし、秋になると米の稔りに感謝をして刈り入れた米を神様にお供えしました。こうした信仰にもとづき、米を「おひねり」としてお供えするようになったのです。
しかし、貨幣の普及とともに米の代わりに、金銭を供えるようになりました。そもそも米は、天照大御神がお授けになられた貴重なものとされ、人々はその大御恵(おおみめぐみ)を受け、豊かな生活を送ることができるよう祈ったのです。現在でも米をお供えする方もいますが、金銭をお供えすることも、この感謝の気持ちには変わりはありません。お養銭箱にお金を投げ入れるところをよく見ますが、お供物を投げてお供えすることには、土地の神様に対するお供えや、祓いの意味があるともいわれています。しかし、自らの真心の表現としてお供えすることなので、箱に投げ入れる際には丁重な作法を心掛けたいものです。
神社に参拝した際に「おみくじ」を引き、運勢などを占われた方も多いかと思います。一般的に「おみくじ」は、個人の運勢や吉凶を占うために用いられているわけですが、種類もいろいろとあり、神社ごとに工夫も窺うことができます。
その内容には、大吉・吉・中古・小吉・末吉・凶とう吉凶判断、金運や恋愛、失(う)せ物、旅行、待ち人、健康など生活全般にわたる記述を見ることができます。また、生活の指針となる和歌などを載せているものもあります。
そもそも占いとは、物事の始めにあたって、まず御神慮を仰ぎ、これに基づいて懸命に事を遂行しようとする、ある種の信仰の表れともいえます。例えば、小正月などにその年の作柄や天候を占う粥占神事(かゆうらしんじ)や、神社の祭事に奉仕する頭屋(とうや)などの神役を選ぶ際に御神慮に適う者が選ばれるよう「くじ」を引いて決めることなど、古くから続けられてきました。「おみくじ」もこうした占いの一つといえます。
子供の誕生に際しては、命名やお七夜(しちや)、お食初(くいぞ)めや初節供など、成育の無事を願うさまざまな行事がおこなわれます。こうした中でも、初宮参―は初めて氏神様に参詣することで、新生児が公的な場に外出する最初の機会ということもあり、華やかにおこなわれる行争となっています。
初宮参りの時期については、男子が誕生後三十一日目、女子が三十二日目に参るのが一般的なようで、これは母子の産屋明けの期日であるともいわれています。しかし、百日目のお食初めでおこなうところもあるなど、地方によって時期が異なり、必ずしも一様ではありません。
現在では特に厳密ではなく、各地方で伝えられた期日後の良き日を選んでお参りする方が多いようです。
初宮参りの意味については、一つは氏神様をお参りすることにより、誕生した子供を氏子の一員として承認してもらうこと。二つ目には、未だ生命が不安定な状態にある新生児が、氏神様の御神徳により力強い生命力を得て、無事に成育することを祈願すること。また三つ目には、子供が産土神(うぶすながみ・氏神様)の御分霊を賜り、この世に生を享けたとする信仰に基づき、これに感謝をするという意味があるといわれています。
初宮参りの際に、魔除けと称して子供の額に紅で印を付けるなど、呪術的なことがおこなわれたり、産の神であるといわれている便所神(かわやがみ)にお参―するなど、地域によりさまざまな風習が見られますが、子供の健やかなる成育を祝福する行事であるということに変わりはありません。
厄年の年齢は、人の一生の中でも、体力的、家庭環境的、あるいは対社会的にそれぞれ転機を迎える時でもあり、災厄が起こりやすい時期として忌み慎まれています。その年に当たっては、神様の御加護により災厄から身を護るため、神社に参詣をしてぃ災厄を祓う厄祓い(やくばらい)の儀(厄除け)がおこなわれます。
厄年の年齢は「数え年」で数え、地域によって多少異なるところもありますが、男性が二十五・四十二・六十一歳、女性が十九・三十三・三十七歳などをいい、この年齢の前後を前厄・後厄と称します。この中でも男性・四十二歳と女性・三十三歳を大厄として、特に意識することが多いようです。
数え年では、新年を迎える正月に、新たに年齢を一つ重ねますので、この年齢が変わったときに厄祓いをおこなうことが多いようですが、これに関係なく誕生日など良き日柄を選び、参詣をする場合もあります。また氏神神社の祭礼にあわせて、厄年の人々が神事を奉仕し厄祓いをする例も各地にあります。
本来、厄年は長寿を祝う還暦(六十一歳)や古稀(七十歳)などの年祝いと同じく、晴れの年齢と考えられていました。厄年を迎えることは、地域社会において一定の地位となることを意味し、宮座(みやざ)への加入や神輿担ぎなど、神事に多く関わるようになります。このため心身を清浄に保ち、言動を慎む物忌(ものいみ)に服する必要があったわけです。厄年の「厄」は、神様にお仕えする神役の「役」であるといわれるのも、こうした理由にものです。
現在では、災難が多く生じる面が強調され、その禁忌の感覚が強くなりましたが、七五三や成人式、年祝いなどとともに、人生における通過儀礼として、大切に考えられていることには変わりありません。
十一月十五日に晴れ着で着飾った子供が神社に参詣することを七五三詣などど称し、 神様に今まで無事に過ごしてきたことに感謝し、今後も健やかに成長することを祈ります。
この行事については、三歳の男女の場合は髪置(かみおき)といって、頭髪を伸ばし始めることを、五歳の男子の場合は袴着(はかまぎ)といって初めて袴を着用することを、また七歳の女子の場合には帯解(おびとき)といって幼児用の紐を解ぎ大人と同じ帯を用いることを表し、子供の成長を社会的に認知するためにおこなわれてきた通過儀礼を起源としています。
江戸時代中頃から商業の発達による影響もあり、都市部において現在のような華やかな風習となりました。
七・五・三という歳の数については、これが縁起のよい陽数であることに結びついたものであり、また11月15日の日取りについては、天和元年(一六八一)のこの日に、五代将軍徳川綱吉の子息徳松の髪置祝いがおこなわれたことを前例にするとも伝えられ、暦学の上でも吉日に当るそうです。
神社への参詣は江戸時代にもおこなわれましたが、明治以降はさらに盛んとなりました。これは子供が七歳のお祝いで氏神様に参詣したとき、神社から氏子札が渡され、正式に氏子の仲間入りができるようになったことからです。よく「七つまでは神の子」といいますが、この時から一人前の人格として扱われるようになったのです。地域によってはお祝いの子供が神祭りで重要な役割を果たしたり、正月や例祭日に神社に参詣したりなど風習もさまざまですが、親が子供の成長を願う気持ちには変わりはありません。
御神前に金銭や食物、お酒などをお供えする際に記す表書きには幾つかの書き方があり、「御神前」「御供」「玉串料」「御榊料」「初穂料」等の書き方が一般的です。
「御神前」「御供」という表書きは説明するまでもありませんが、「玉串料」「御榊料」とは玉串や榊の代わりに、また「初穂料」とはその年に初めて収穫されたお米の代わりに、それぞれお供えする料であることを意味しています。
このほか「上」や「奉献」「奉納」と書かれる場合もあります。「上」はよく神様や目上の方に対する御礼の際の表書きに用いられる語です。「上」はお神札(ふだ) ・お守などの授与品や撤下神饌を入れる袋の表書きにも用いられていますが、この場合、撤下品は神前にお供えする際、「上」と記すのであって「上」とはあくまでもお供えをする神様に対して用いられている語ということができます。
一方、お神札やお守が御神霊の御加護を戴ぐ尊貴なものなので丁寧さを表現するために「上」を表書きにしていると考えることもできます。このほか、神式の葬儀のお供えに関しては「御霊前」や「玉串料」「御榊料」といった表書きが用いられます。
市販の不祝儀袋には「御霊前」とあっても、蓮の花の文様が付いている場合がありますが、これは仏式用のものなので注意して下さい。表書きには、神事に用いられる以外にも冠婚葬祭を通じてさまざまな書き方があり、自らの気持ちを伝える意味でも大切なものということができます。
大祓は、我々日本人の伝統的な考え方に基づくもので、常に清らかな気持ちで日々の生活にいそしむよう、自らの心身の機れ、そのほか、災厄の原因となる諸々の罪・過ちを祓い清めることを目的としています。
この行事は、記紀神話に見られる伊井諾尊(いざなぎのみこと)の喫祓(みそぎはらい)を起源とし、宮中においても、古くから大祓がおこなわれてきました。中世以降、各神社で年中行事の一つとして普及し、現在では多くの神社の恒例式となっています。
大祓は、年に二度おこなわれ、六月の大祓を夏越(なごし)の祓と呼びます。大祓詞を唱え、人形(ひとがた・人の形に切った白紙)などを用いて、身についた半年間の穢れを祓い、無病息災を祈るため、茅や藁を束ねた茅の輪(ちのわ)を神前に立てて、これを三回くぐりながら「水無月の夏越の祓する人は千歳の命のぶというなり」と唱ます。また、十二月の大祓は年越の祓とも呼ばれ、新たな年を迎えるために心身を清める祓いです。
私たちにとって、その年々の節目におこなわれる大祓は、罪や穢れを祓うとともに、自らを振り返るための機会としても、必要なことではないでしょうか。
家のおまつりのいろは
神棚を祀るときには、一般的に南向きか東向きにお祀りします。しかし、西や北向きがいけない理由はありません。これは、我々日本人の方角に対する考え方を見てみる必要があります。まず東と西は、日が昇り沈む方角であり、日々の繰り返しの中から、重要なる方角とされてきました。つぎに、南と北の方角は、中国では「天子は南面する」という語に表れているように、北に在って南に向かうことが、君主の地位を象徴するものとして尊ばれてきましたが、我が国でも、この思想的影響を受けながら、古くから祭りなどを中心としたさまざまな儀礼の場において、特に重要な方角として考えられてきました。
現在、我々が家庭において神棚を設けるときには、こうした考え方に基づき、日が昇る東向きか、陽光が最を降り注ぐ南向きを原則に、家中で最を清浄な場所を選んでお祀りします。これは、神棚が家族や家庭の守りの中心として重要だからです。
神社も、これと同じように一般的に南向きか東向きに建てられていることが多いようです。しかし、地勢的問題やその神社の特別な由緒から西向きや北向きに建てられていることもあります。
新しい年を迎えるにあたり、神棚をきれいに清掃して、新たに神社から受けたお神札を神棚にお祀りします。 神社から受けるお神札には、伊勢の神宮のお神札である神宮大麻、氏神様のお神札、台所にお祀りする竃神様のお神札などがあります。年の区切りにあたるこの時期に、神社から新しいお神札を受けることにより、御神霊の力、(旦恩頼(みたまのふゆ)を戴き、新しい年も家内が無事であるように祈念し、お祀りします。
今までお祀りしていた古いお神札は、過去の一年が無事過ごせたことを感謝し、神社にお礼参りをして納めます。このお神札は神社でお焚き上げされます。このお焚き上げを地域によっては、左義長(さぎちょう)やどんど焼きと称しています。
我が国には古来、親から子、子から孫へと、脈々と続く生命の繋がりを尊び、これを発展的に未来へ受け継ぐという考え方があります。こうしたことは、例えば伊勢の神宮でも、二十年ごとに社殿を造り替え、大神様に新しいお社にお遷り戴く式年遷宮(しきねんせんぐう)が、古来連綿とおこなわれていますし、そのほかの神社でも社殿を新造することにより、さらなる御神威の発揚が図られてきました。
私たちが毎年、神棚のお神札を新しくするのも、まさにこうした考え方によることなのです。
お伊勢さまのいろは
伊勢の神宮は一般的には「お伊勢さま」「大神宮さま」と呼ばれていますが、正式には「神宮」と称し、我々日本人の心のふるさととして古くから親しまれて参りました。
「伊勢の神宮」とは、天照大御神(あまてらすおおみかみ)を祀る皇大神宮(こうたいじんぐう・内宮)と豊受大御神(とようけのおおみかみ)を祀る豊受大神宮(とようけだいじんぐう・外宮)の両宮をはじめとして、別宮・摂 社・末社・所管社合わせて百二十五社を総称していいます。その中でも内宮の御祭神である天照大御神は皇室の御祖神(みおやがみ)として貴い御存在であるとともに、常に我々国民をお守りくださっている日本の総氏神様であり、全国で約八万社ある神社の中でもその根本となるお社です。しかし神社の場合、寺院などに見られるような本山末寺といった上下の地位を表す関係はありません。
神道の祝詞の中で古い形態をのこす「大祓詞」(おおはらいことば)の内容は、八百万の神々が集まり、話し合いを重ねた結果、皇孫(こうそん)に豊葦原(とよあしはら)の瑞穂の国(日本の国)を安らかな国として治めるようにと御委任なされたことが記され、天孫降臨に際して国つ神である大国主命が天照大御神の御子孫に国を譲り渡したように、多くの神々との関係においても、それぞれの神々の立場が尊重され、話し合いの精神を以て諸事が決せられていたことが分ります。こうした考え方は現在の私達にも受け継がれている我が国の美風ともいうべきことです。
この神々の関係は神社についても同様にいえることで、現在、全国の神社の多くは神社本庁のもと、各神社ごとにそれぞれの神々を祀り、お祭りが厳粛におこなわれるようにつとめており、神社界全体としては伊勢の神宮をはじめ、全国の神社の振興を図るための諸活動がなされています。このことからも、伊勢の神宮を格別なる御存在として神社本庁が特に本宗(ほんそう)と仰いでいるのは、全国神社の総意に基づくことといえます。
年末年始に氏神様から戴くお神札(ふだ)には、氏神様のお神札のほかに伊勢の神宮のお神札である神宮大麻(じんぐうたいま)があります。
伊勢の神宮は、皇室の大御祖神(おおみおやがみ)である皇祖天照大御神(あまてらすおおみかみ)をお祀りする神社です。
氏神様がその地域をお守りになっている神様であるなら、神宮は日本全国をお守り下さっている総氏神様であるわけです。ですから、例えば氏神様が神明社で天照大御神を御祭神としていても、神宮大麻は、皇祖神であり全国の総氏神様である神宮のお神札として、氏神様のお神札とともにお祀りするのです。
神宮大麻の起源は平安時代末に遡ることができます。元来、神宮は私幣禁断(個人的な祈願を受けない)の神社でしたが、諸国を巡った御師(おし・おんし)の活躍をあって、広く一般の崇敬を集め、大麻の頒布を全国的に広がっていきました。明治以降は皇祖神の大御恵(おおみめぐみ)を戴くための大御璽(おおみしるし)として頒布されてきました。
また、大麻という名称は、神社でお祓いを受ける際に用いられる大麻(おおぬさ)からきたものであり、大麻を頒布した御師の間でも「御祓」(おはらい)や「お祓さん」といった通称が用いられていたことなどから、御神前に進む際の参拝者の清浄なる心持ちを表したことと考えられています。
毎年、重ねて御神威の発揚を願うためにも、新年には氏神様のお神札とともに、神宮大麻も新たに戴いてお祀りしましょう。